老老介護は日本で普通に見られる光景となった。
https://www.asahi.com/articles/ASP727R3NP72PITB001.html
このような事件(事件とよべるのか)で、被告と家族の辛さなど当事者でなければわかりようもなく無責任なことを言えないわけだが、何が起こったのか、なぜ起こったのかを想像すらしないこともまた無責任であるように思える。
2018年度の要介護(要支援)認定者数は約658万人。日本の介護される人は2040年にピークを迎えると予測されている。
2019年 厚生労働省の「国民生活基礎調査の概況」によると、自宅で介護を受けている高齢者のうち、介護者もまた65歳以上である「老老介護」の割合が全体の59.7%を占めて過去最多を更新。
介護者の割合は約半分が同居。配偶者と子に負担がのしかかっている状況が見て取れる。同居の中で子の配偶者も一定数おり、相続人ではない親族(例えば子の配偶者など)が被相続人の介護や看病で貢献すれば金銭請求が可能になるという相続法改正は、こうした現況も反映したものと考えられる。
人は死にたい時に死ぬわけではない
誰でも大切な人に生きていてい欲しいと願うし、体が弱ってしまっても介護を受けることで長く生きることが可能になった。
未来、人類は今よりももっと「死」の克服に近づくに違いない。病気やウィルスを克服するだけでなく、肉体的な若さや健康体でありつづける時間も引き伸ばされていくだろう。
本人が望むと望まずに関わらず。
いや望めば手に入るならマシだが、テクノロジーの恩恵を全ての人が受けられるとは限らない。
死がより忌避すべき状態となり、生きることの素晴らしさがより強まれば、私たちは辛くても生きる選択肢しか倫理的に選べない状態は変わらない。法律では解決できそうもない。
先のニュースだと愛する人の介助を献身的に続けたが最後は妻に手を掛けた被告に対して裁判長は「長いこと奥さんのために尽くしてきたと思いますが、今後は自分のことも考えて、心穏やかに過ごしてください」とに語りかけたという。
生きるとは、死ぬとは。
私自身は強く生きたいと願っているが、体も脳もほとんど思うようにならず誰かに負担を強いる状態になったとしたらどう思うのだろうか?また認知能力が低下した時に感じる気持ちや思考は本当に自分自身が正常な状態での気持ちや思考と同じなのだろうか?
誰もが向き合うことが大切だとしたら、その結果を選べることは大切ではないのだろうか?